将来幸福が期待できないなら自殺は有効な一手か。
みなさんこんにちは。
文系大学生です。
私は高校時代、小説家芥川龍之介のかっこよさに気づき、
「芥川龍之介カッコいいって気付いちゃった自分カッコいい」思想に支配されていた時期がありました。(ダサい。)
そうして芥川について調べていくうちに、
芥川が自殺の前に遺した
「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」
という言葉を知りました。
当時私は芥川全肯定マンでしたから、
「こんな理由で自殺するなんてカッコいい。さすが芥川龍之介だ。」
と非常な感銘を受けておりました。
しかし芥川ファンになってしまった高校生の私としては、
「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」を理解したくなりました。
何日も何日も考えました。小説も読んでみました。
そうしてあらゆることを考え抜いたある日私は、
「あぁなんだ、自殺すればいいんだ。」
という結論を導きました。
その瞬間にこんな結論にたどり着いてしまった自分が恐ろしくなり、すぐさまその思考の過程を忘れることにしました。
幸いまだその結論は頭の中で何度も反芻していなかったので、記憶に定着することもなくすっぽりと忘れることができました。
そしてあれから3年ほど経った今、
芥川の力を借りることなく僕は再び「自殺」という結論を導きました。
せっかくの機会なのでその思考過程・理論を残しておこうと思います。
まず前提として、
私は将来、日本の教育をより良いものにしたい、それが実行できる存在になりたいという野望を抱いています。
その手段は都道府県の教育委員会や文部科学省で影響力を持つことでも良いし、
研究者として名を挙げて教育界の常識を覆すことでもいいし、
学習指導要領に携わることでも良いのです。
我ながらガキくさい野望ですが、事実なので恥ずかしいけど述べておきます。
そして近頃気分がブルー気味で、卑屈な方向に思考回路が突出しています。
(今回の記事は「自殺という結論が出せる人間の思考回路を観察する」という点に価値があると思うので、論理の飛躍なども認めたうえでそのまま書き残します。)
このような前提において、私はまず
将来影響力の持つ地位に就けないくらいなら私の人生に意味などない。
と、このように考えました。
(バカみたいですが大真面目です。)
それに人生には嫌なことが付き物です。
気を遣い合う人間関係、欲にまみれた社会人、裏切り、長い人生を見据えたリスク管理、ストレス社会、抜け出せない景気の低迷、予想できないケガや病気、それによる出費や計画崩れ、愛する者との別れや死
挙げたらキリがありません。
それに対して人生で発生しうる幸福イベントといったら?
信頼できる友人な仲間との出会い、愛する者との結婚、愛する子の誕生や成長
と人間関係に起因するものが多く、それらは当然崩壊の可能性を秘めています。
つまり多くの幸福が、多くの不幸の種になりうるのです。
そもそもストレス社会って何ですか。
(ここで理論の崩壊と話題の大転換。正気じゃないですね。)
それを肯定してしまっていいのでしょうか。
40年以上も社会人として過ごすのに、その世界はストレスにまみれているって自覚しているんですか?
そんなに悲しいことってないでしょう。
不幸になるとわかっていても、生きてゆくためには進まねばならぬ道が社会人でありストレス社会であるならば、
長生きは目的で、幸福はサブに過ぎないということですか?
不幸でも長く生きるなんて、
細く短く生きることに意味などあるのでしょうか。
人生のリタイアに歯止めをかけるのは、人生が一人のものではないからだと思います。
親や友人がおり、学校や仕事といったコミュニティに属し、
仕事や子育てといった(代わりが効きにくい)責任ある使命を負ってしまうと、
自殺して自分だけが楽になるなんて許されないと思います。
無論、学校の先生も人類が長らく付き合ってきた宗教も、「自殺はいけません」「親を悲しませてはいけません」と教育しています。
道徳的規範を破ってまで人生を終える理由がないから、許可も取らずに人生を終えてしまったら責任逃れになってしまうから、人は不幸でも生きているのではないでしょうか。
芥川の言葉を借りれば、
「生きる為に生きてゐる」
とも捉えることができます。
でも私は、人生は幸福であるべきで長生きはその手段に過ぎないと考えています。
そして人生の目的はほかのだれにも邪魔されるものではない、とも考えています。
すると、自らの将来的永続的な不幸を覚悟してまで他人に自分の人生を捧げることは、私の人生観と相反することになります。
したがって、
自分が将来ずっと苦しむなら今死んだほうがマシ
積極的な人生のリタイアは有効打である
という結論が導けるのです。
おそらく半年後の自分が読んでも納得できない、支離滅裂な文章でしょう。
しかしながら強いネガティブな思想に捕らわれると、このような状況になってしまうということを示しておきたいのです。
話は少し変わりますが、
2019年5月28日に朝、川崎市でスクールバスを待つカリタス生が19人殺傷された、本能が痛ましすぎると脊髄反射の如く判断してしまうような残虐極まりない事件が起きました。
犯人は生徒や彼らを守ろうとした大人を両手に持つ包丁で切りつけた後、自ら首を掻っ切って自殺しました。
あまりに衝撃的な事件で、この事件の被害者とは関係のない人すら憤り涙を流し献花する、という事態にまで発展しています。
私だってこんなおぞましいニュースを聞いたら怒りが湧いてきました。
(その怒りの対象が何なのか未だにイマイチ掴めていませんが、、、)
しかし一方でこんなことも思いました。
「そりゃ犯人自殺するよね。」
こんな事件起こしてしまったら、後に彼を待ち受けている人生は生き地獄以外の何物でも無いもの。
それから2019年6月1日、元農林水産事務次官(76歳)が息子(44歳)を包丁で複数回刺し殺害するという事件が起こりました。
息子はニートで引きこもりでドラクエ10の重課金者だけでなく、母親や父親にも暴力を振るっていたそうです。また「運動会をしている小学生がうるさい」と激怒したようなこともあったそうです。
容疑者は、小学校生徒をターゲットとした川崎殺傷事件の影響もあり「その事件と同じように引きこもりの息子が周囲に迷惑をかけてはいけない」的なイメージが頭に浮かび、息子を殺害したと自供しているといいます。
これも痛ましすぎる。。。
容疑者の精神構造がマトモである保証はありませんが、もし犯行動機が供述の通りだとしたら、父親である容疑者は息子が社会に害を及ぼす可能性のある存在だからこそ自らの手で息子の人生を終わらせたことになります。
裏を返せば、息子が社会に害を与える可能性が無いと判断できれば、容疑者は息子を手にかける必要がなかったわけです。
自らの社会的地位もかなぐり捨てて、危険因子である息子を社会から排除する。
いくら子育てが親の責任とはいえ、悲しすぎます。
他にも痛ましい事件は無限にあります。
毎日起きている交通事故ですら痛ましすぎると感じている私です。
世の中は痛ましいイベントに満ち満ちています。
近頃それを強く強く感じています。
そういったニュースが耳に入るたびに被害者だけでなく容疑者の精神状況まで想像してしまってしばらくその場から動けなくなってしまいます。
また少し話は変わりますが、
今日用事があって祖父母の家にお邪魔しました。
家に付くと祖父が居て、私を歓迎してくれ、
メダカの餌やりやら、庭の植物の水やりをし始めました。
祖父母の庭にはいくつもの命が溢れていて、私の祖父はその様子を幸せそうに見つめていました。
私はその時目に映るもの全てが、ため息しか出ないほどに美しいと思いました。
芥川龍之介は自らの自殺を仄めかした「或旧友へ送る手記」において、
「唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。」
とあらわしています。
私は今のところ積極的に人生をリタイアするつもりはありませんが、
芥川のこの描写は腑に落ちました。